はだかだからからだ。

秋田に僕はいます。

喪失感コンニチワ。

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平成最後の日の夜は

コンビニの前にある公衆電話から

家に電話をかけた事を

写真のフォルダを見返して思い出した。

 

何年振りかわからないが

あの時、電話をかけた。

 

 

 

何度目かの呼び出しで

母親が電話に出た。

 

母親は家の電話機に表示された

公衆電話からの着信に

最初は戸惑ったらしいが

すぐに僕からだと思ったらしい。

 

電話したから何があるというわけでは

ないと思うけど、電話した。

 

どうしたのと言われたけど

別にどうもしていなく

今、帰りますとだけ伝えた。

 

帰ってテレビの前で

次の日を迎えた。

 

 

 

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ここ半年ほど

いや、ずーっと前からだけど

温泉によく行く。

 

1人でも行くし

友とも行く。

 

決まってこの温泉じゃなきゃいけないとか

一度行ったらあとは行かないとか

別にルールを決めているわけでもなく

ゴールも目指してはいない。

 

僕の友達が最近

動画ストリーミングサービスを

よく利用していて、それで1日が

過ぎていくらしいい。

 

友はその中でも海外ドラマを

よく見るらしいい。

 

そのドラマを全て見終わった後の

なんとも言えない喪失感が

いつも淋しいいらしい。

 

僕もその気持ちはよくわかる。

好きなアニメを見終わった時や

長く続いた漫画の連載が終わった時

ゲームをクリアした後の感覚は

なんとも言えない。

 

生活していてもそうで

いつも使っていた茶碗を

割ってしまった時や

学校を卒業した時

例えば平成なんかが終わる時。

 

ただ、その後に次のステージが

ある時は、その喪失感は薄らぐ。

 

茶碗は近所のスーパーに売っているし

卒業しても次の学校や

仕事に就くこともある。

平成も令和が準備して待っていた。

 

でも、なかなかうまくはいかない。

 

茶碗は近所のスーパーに

売っていなかったかもしれない

次の学校に行けなかったかもしれない

就職した場所でみんなと同じような

ゴールを目指した道のりを

歩めないのかもしれない。

そもそもゴールなんて

見えないかもしれない。

令和だって僕らが準備したんじゃないし

平成だっていつのまにかそこにいた。

 

でも、ぼくらはどこかで

ゴールの後の次のステージを

準備されているものだと

ばかり思ってしまう。

 

それは隠しステージか

はたまた、続編か。

 

ドラマを見終わって

喪失感を感じていたら

また、新しいドラマが始まる通知が

スマートフォンやテレビ画面に

映し出されている。

 

そうすると動けなくなる。

 

浴びるように、次から次に来る

喪失感と高揚感に挟まれていたら

その間からぬけだせなくなってしまう

そんな気がしてしまう。

 

これは全てに共通するんだろう

インターネットを使う人も

テレビで捕まる人も

温泉に入っている僕も。

 

淋しさと隣り合わせで生きて

ゴールなんてなくて

次のステージもなくて

区切りなんてないって事を

知る事が大事なのかな。