はだかだからからだ。

秋田に僕はいます。

いつもの日常。

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 自分の働いている場所によくいらっしゃる

農家のおじいさんがいる。

 

年齢は3桁に近い。

 

口癖は

「じぇんはねぇ!!」

 

よく、いらっしゃるおじいさんに

この前、熱いブラックのコーヒーを

淹れて手渡した。

 

僕が熱くて

コップのフチを触って手渡したそれを

おじいさんは厚く大きな手で

中心を掴んだ。

 

その時

「今度から、おめが当番になったのが?」と

いつもコーヒーを入れてくれる

女性の方をチラチラと見ながら

僕に向けて言った。

 

「はい、そうですよ」と

答えた僕だったけど

その時初めて、このおじいさんに

認識されたと思った。

 

僕は最近、相手が僕の名前を知らなくて

僕自身も相手の名前をしっかりと

知らないような場所に身を置いた。

 

その時感じたのは

この人には認識されていて

あの人には認識されていないという事。

 

人が相手を認識する時は

2人の会話をする時。

そして共有した話題を持った時。

 

それは会社の中で行う業務的な会話や話題ではなく

1人の人として会話をして話題が見つかった時

なんじゃないかなと思う。

 

例えば、出身地や年齢

どこの学校へ行ったかとかの話でもいい

もしかしたら自分の知り合いと出身地が近いとか

もしかしたら孫と同じ年齢で同級生とか

もしかしたら自分の高校の後輩だったとか

そんな感じで話題ができる。

(上の例は僕が仕事で接する人たちに限っての例)

 

3桁に年が近いおじいさんとの

共通の話題なんてものに

僕は気づいていなかったけど

コーヒーを入れたことによって

僕とおじいさんに

「コーヒーを淹れる」という

話題ができた。

 

いつも淹れてくれた人は

あの人だったけど今度から君か。

よろしく。

 

そんな僕を認識してくれた

言葉が聞こえた。

 

僕が手渡したコーヒーを

熱いまま飲んで

おいしいと言ってくれたおじいさん。

 

何気ない会話。

いつもコーヒーを淹れてくれる人。

当たり前に食事を作ってくれる家族。

いつも綺麗な何かや

いつでも変わらない何か。

 

もしかしたら、日常の中で

認識していないモノが沢山あるのかもしれない。

 

いつも当たり前だと思って

いなくなってから気づく大切さ

みたいなものは

この認識の有無によるものなのかなぁ。

 

このおじいさんは

いつもコーヒーを淹れてくれる女性の人が

今日は僕になったことに気づいていた。

 

当たり前のように感じるかもしれないが

それを言葉にすることをしない人は

多分、たくさんいると思う。

 

だって、当たり前だと思ってしまう。

いつ行ってもコーヒーを出されていたら

出されるのが当たり前だと。

 

綺麗な白髪で

帽子をb-boyのように斜めに被り

何十年も農業に従事して

僕が淹れたインスタントの熱いブラックコーヒーを

おいしいと飲む

年齢が3桁に近いおじいさんが

僕は好きだし、みんなも好きだ。