はだかだからからだ。

秋田に僕はいます。

若さゆえの過ちというものを認める。

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 父親がいつの間にか

電動のノコギリを使うようになっていた。

 

 

父親は力が強いイメージがずっとある。

 

小さい頃スキー場に一緒に行った時も

いつも転がって立てない僕にストックを

差し出して立たせてくれたり。

 

重たい農業機械が倒れた時に

「まいったなぁ」と言いながら

どうにかして、立たせたり。

 

僕が車で冬に二日連続でスタッグした時は

二日連続で、軽トラに鉄のロープを

つけて引っ張ってくれたり。

 

兄が家の近くでスタッグした時は

家からトラクターに乗って

除雪しながら迎えに行って

同じく鉄のロープをトラクターにつけて

引っ張ってくれたり。

 

家の大木を引っこ抜いてみたり、

家の大木をチェンソーで切ってみたり。

 

最近も僕が電動フォークリフト

運転していて、段差を踏み外して

動けなくなってしまった時に

なんとかして周りの農家さんと

助けてくれた。

 

何かと高橋家に訪れる試練に

パワーと知恵で解決してきた父が

電動のノコギリを使っていることを知った時

どこか僕の中でずっと力が強いと思っていた

父の老いみたいなのを感じた。

 

 

新しいテクノロジーを取り入れている人は

年齢ではない若さを感じたりする。

 

だからか、父親や母親が

ガラケーからスマホに変えた時に

僕は老いみたいなのは感じなかった。

 

だが、電動ノコギリという

新しいテクノロジーを取り入れた

はずのそれには、老いを感じた。

 

農業という分野で目に見える若さを感じるのは

電動ノコギリでギコギコやるより

ノーマルノコギリで汗かきながら

ギコギコやる方だと思う。

 

でも、その若さを追求するのでは体を壊す。

そして死を近づける。

 

農業をやったり、この冬国で暮らしていると

すぐ近くには死があることを教えてくれる。

 

僕が冬道でスタッグした時

日常生活で感じたことのない恐怖があった。

フォークリフトで段差を踏み外した時

すぐ下にはコンクリートがあった。

恐怖を感じた。

 

その恐怖の引き金は僕の若さだった。

 

スタッグした時は雪がいつの間にかドア付近まで

積もっていたのに、行けるだろうと思って進んで

しまっていたから。

 

フォークリフトも僕の慢心から

行けるだろうと思って進んだ結果だった。

 

 

父親は

このままノーマルのノコギリでは

体を壊すかもしれないと思ったから

電動にしたのかもしれない。

 

それは何十年と

この地で農業と生きてきた勘なのか

なんども感じた死の感覚によって

研ぎ澄まされた直感なのか。

 

 

僕がただ、「老い」と感じてしまったのは

僕がまだ若いからなのだろう。

 

 

 

 

「若さ」と「老い」。

 

 

 

僕は「若さ」を求めるのではなく

しっかりと「老い」ていきたいと思う。