はだかだからからだ。

秋田に僕はいます。

忘れない日を忘れない。

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先日、矢口高雄さんの
追悼展に行ってきた。

 

釣りキチ三平を知ってはいるが
読んだことはない。
自分の家のスイカを出荷する時には
三平シールを毎年貼っている。
矢口高雄さんは
自分の高校の先輩でもある。
でも、よく知らない。

 

最近、子供たちと一緒に
ゲームをする機会があった。
子供たちはスマホだったり
携帯ゲーム機(Switch)を
手に持ってゲームをしている。

 

目の前の人と対戦するタイプもあれば
目に見えないところの人と
対戦するタイプもある。
もしくは一人黙々とやるタイプの
ゲームもあった。

 

ふと目を閉じて自分の
小さい頃を思い出すと
自分もよくそうやって
日がな一日ゲームをしていた。
友達と集まってやったり
一人黙々とやったり。

 

ただ、やっていたことは覚えているが
画面の記憶がない。

 

それよりも
友達の家に行くまでの道のりを
友達と汗をかきながら
自転車で漕いで行った場面や
帰る時、太陽が落ちかけて
真っ暗になる前に
顔に虫をぶつけながら
大慌てで帰った場面や
みんなでゲームをしている場面の
俯瞰の記憶が残っている。

 

矢口高雄さんの展示の中に
高校生時代の事について書かれた
言葉の中で、目に止まった言葉がある。
「高校三年間の記憶がスッポリ抜け落ちている」という言葉だ。

 

矢口さんは高校三年間ずっと勉強に
励まれたそうで、その成果もあって
卒業後、銀行に就職したそうだ。
だが、その記憶が
無いと書いてあるのだ。

 

この言葉を見て
自分が子供の頃
心血をそそいでやっていた
ゲームの画面の記憶がないのと
矢口さんが高校時代の記憶が
無い事の原因が似ているのではないかと
思った。

 

多分、画面を見る事や
教科書やノートを見ることに
時間をそそぎすぎてしまったんだろう。

 

ゲームを通して
誰かとコミュニケーションする事や
誰かに会いに行くこと
肉体的にも精神的にも
外へ行くことが大事なのだろう。
誰かに見てもらう事も大事だろうし
一緒にやることも大事。
感想を言うのも、聞くのも大事。

 

勉強した事を
自分の中に閉じ込めるのではなく
誰かに教えたり
誰かに聞いてもらったり
色んなやり方を試してみたり
そして感想をもらったり
言ってみたり。

 

そしてコミュニケーションは
別に人というわけではなく
自然だったり動物だったり
虫だったり魚だったり。

 

目を閉じて思い出すのは
風景だったりすることが多い。
広がりがある記憶。
ゲームの画面や教科書のページ。
そのまま見るだけだと広がりが
ないような気がする。
一人で黙々とやる時間は
とても大事だけど
そればかりに時間を取られると
記憶がスッポリ抜けるかもしれない。

 

展示の中で飾られていた
横手市のために矢口さんが描いた
ポスターの春と夏がすごく好きだった。
矢口さんのコメントもよかった。

 

ずっと変わらずに人を魅了した
矢口さんの原画やマンガを見る。

 

それは記憶に焼きついた
風景や人々との交流が
描かせた事によって
人々を魅了したのだろうと思った。

 

マンガ美術館を出ると
原画でもマンガでもゲームでも
教科書のページでもない
風景が広がっている。
風景を描いた絵ではない
変わり続ける風景がある。
外に出ても画面がない
広がりのある風景が
ここにはある。