はだかだからからだ。

秋田に僕はいます。

秋田05

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GW最終日はスイカの定植。

この日、僕は午前中仕事だったのですが

前日から泊まっていただいた友に

イカの定植を頼み僕は仕事へ。

 

僕がいないなか、僕の家族と親戚と

泥まみれになりながらスイカの定植を

僕が来るまで3時間くらいかな

やっていただいていた。

 

僕が現場に来た時もこの笑顔。

僕が来て安堵したのかどうなのか

それでもいつも農業をしに来る友たち。

 

彼はそういう人間であり

彼たちはそういう人たちなのでしょう。

 

いつもありがとう。

 

 

 

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「彼が鍬を持って畑を耕しに来てくれた!」

に使っていいよ!みたいな

 

 

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このスイカの苗を

500本位植えたのです。

 

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この日の構成メンバーは

男性3名 女性5名 の全8名。

 

自分の兄弟は男だけなのですが

親戚全体を見たり父親の兄弟を

見て見ると女性が結構いるので

自分の家の農業経営は

基本、女性の方々にとんでもない

助けをいただいてやっているのです。

 

他の人たちがどうやっているのか

あまりわからないけど

女性が多いから友たちも

やりやすいのかもしれないし

色んな意味でイイんだと思います。

 

 

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午前は終わり。

午後から残り3本スイカを植えるのです!

 

 

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そして泥だらけになりながら

イカの定植は異例の速さで終わり

僕らの夏が始まりました。

今年は今まで田んぼだったところに

イカを植えました。

ここは自分が小さいころにスイカ

植えていた場所で、その小さい頃に

祖父と朝早くここにロケット花火を

打ち上げに来た時、とんでもない量の

バッタがスイカの畑から飛び出して来たのを

今でも覚えています。

今ではバッタの大群はおろか

バッタすら見なくなりました。

 

そういえばバッタで思い出しました。

この前、父親がイナゴの佃煮を

温泉旅館から買って来ました。

久々に見たそれは懐かしく

でも、もう食べれないなと

思っていたのですが

スッと食べてみると

不思議なもので噛むたびに

あの時の食感と味が蘇るのです。

 

それは保育所の頃

無我夢中でバッタを追いかけていた

あの頃、おばあちゃん先生が

煮てくれたあの味なのです。

 

また、追いかけたいな。

小さい頃は綺麗な蝶を

追いかけて部落の家々を

駆け巡ったりもしました。

その家でアイスをもらったりも

したっけか。

 

なんだか、懐かしい。

 

 

 

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泥だらけのまま

燃え尽きてしまった友。

(上から下までパンツ以外は僕の家のもの)

 

ご苦労様です。

(この後の母親、ご苦労様です。)

 

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農作業は爽快感がつきもの。

 

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その後、近くの温泉へ。

色んなものを洗い流しに。

 

 

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その後、横手へ。

 

この日はまたまたデザイナーさんが。

 

野原さんは

作る上で流されないことが

一番だと言ってくれました。

誰かと一緒だったら

それは自分が作らなくても

誰が作っても一緒になるし

面白くない。

オリジナルを生みだすために

流されないこと。

そして、もし流されていても

流されていることに

気づけること。

 

イイように流されていても

心では流されていない。

そう、思いながら生きていきたいなぁ。

 

野原さんがシイタケを大好きと

言ってくれたので次の日

帰る前にシイタケを渡した。

その後

「シイタケ、最高でした!

あんなに美味いのは初めてでした

ありがとうございます!」と

言っていただいたらしく

とても嬉しかった。

 

東京に農協を通じて出荷されている

シイタケたちを僕たちは

誰が食べているのかは知らないし

その人たちは誰が作っているのか

知らない。

 

東京で美味しいと

言ってくれた人。

 

シイタケを美味しいと

言ってくれた横手の人たち。

 

この前、家にシイタケを

買いに来たおっちゃん。

「あるだけくれ、なんでもいいから

もっとないのか」と言っていた。

正直、気分は良くなかった。

 

言い換えればアンタの家のシイタケなら

なんでも美味しいから

どれでもいいからもっと頂戴!

って意味のニュアンスなんだと思うんだけど

気分は良くない。

 

その人の言葉のニュアンスだと

思うのだけれど。

 

あなた一人のために

農家は作っているのではなく

農家はたくさんの家族を

養うために。

たくさんの

シイタケを買ってくれる

美味しいと言ってくれる人のために。

そのために作っているんだと思う。

 

そのシイタケは

あなたが買うためのものでも

食べるためのものでもなく

たくさんの人が関わって

そして、たくさんの人に

美味しいくいただいてもらうために

作られたシイタケだから

あまりそんな言い方は

して欲しくないと思う。

嬉しい言葉でもあるのだけど

僕は嬉しくない。

あなたのためにも

選ばせてほしい。

あなたが美味しいと

思ってくれるから

だから作るのだと

そこを知ってほしい。

 

 

あの人は買ってくれないよなーと

そう思ってるのは自分だけで

あの人は買いたいと思っていたら

その自分が抱いた気持ちのせいで

その人は食べることも

知ることもできなくなる。

 

だから、僕は

僕を知らない

僕の家のシイタケを

知らない誰かに

売りに行くんだと思う。

 

利益なんか度外視で

はなっから望んじゃいない。

 

もっと単純に

「美味しかった!また食べたい!」

「ありがと!また作って持ってくよ!」

そんな関係でいいんだと思うんだけどな。

ニュアンスって大事だな。

 

 

 

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今日の慰労会を兼ね

焼肉を食べに。

 

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いつも、ありがとう。

 

友は悩んでいる。

悩んでいる人たちは

自分の中で答えを持っていたりする。

それを少し押してほしいから

相談をするのかもしれない。

 

悩んでいる人たちは

何かの上に立っていて

その先へ行こうとしているのかもしれない。

相談される人も

立ち止まれるくらいの時に押すのではなく

飛びだせるところになるまでしっかり

相手の話を聞いてあげて

それから待つのか押すのかしてもいいのかなと

思ったりもする。

僕が言うのもあれなのだけど。

 

もう少しだけ僕は

友と話をしていきたいと思う。

 

それは、また農作業して

ここで牛ホルモンでも食べながら

したいと思う。

 

 

 

 

GWは最後の最後まで

美味しくいただけた。

ごちそうさま。

ありがとう。